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ああ誰よりも恨むべき神様。
貴女に祈るなんてとても耐え難い屈辱だけれど
せめて、せめて僕の中で光り輝き支えてくれる
彼の思い出だけは消さないで。
彼が死んでしまった。
葬儀は行われていない。誰も彼のことを思って涙を流してもいない。
彼の亡骸が無かったから。誰も彼のことを覚えていないから。
彼はこの世界そのものから消滅してしまったから。
彼が生きていたという証拠も、確かな記憶もすべて。
覚えているのは僕と、朝比奈さんと長門さんだけ。
彼がいない放課後の部室。
珍しく長門さんも居なかった。
昨日やり残したままのオセロが、机の上に残っている。
これだけ。これだけしか、彼がいた、存在したという証拠は無いのだ。
長門さんと朝比奈さんも周りを囲んで観戦していたな。
何気なくそれを数えてみたら、僕が使っていた黒のほうが多かった。
もし彼が消滅していなかったら、きっと僕は初めて彼に勝てていたんだろう。
彼の番で、それは終わってしまっていた。
それから少したって朝比奈さんが来て、それからすぐ長門さんと、……涼宮さんが入ってきた。
ずかずかと、団長席に座ったその人の顔は、とても晴れ晴れとしている。
今までみたこともないくらい。
「あ~、なんだか寒いわね。みくるちゃん、お茶入れて!」
「は、はい。」
朝比奈さんの目はとても赤かった。そのままシンクに向かう。
長門さんはいつもの椅子に座りはしたが、本を膝に置いたまま、開くことはしなかった。
今日朝に部室に集合したとき、朝比奈さんはその目から零れそうになる涙を、一生懸命耐えていた。
『泣いちゃ駄目です。キョン君はきっと、私が泣いていたらきっと…困った顔しちゃいますから。
昨日はやっぱり泣いてしまったけど。……もう、私は泣きません。…絶対に。』
顔を上げた朝比奈さんの目は、とてもとても力強かった。
長門さんは必死に呪文を唱えていた。何度も何度もずっと。それは無駄だとわかっているのに。
いつも心強く見えていたその肩は、普通の少女のように小さく見えて。
微かに、震えていた。
団長の机に飾られた団員全員で撮った写真。
真ん中に彼がいたはずなのに。
影も形も無くなっていた。
まるで最初からいなかったかのように。
それをみた長門さんの喉から、密かに抑えきれない嗚咽が漏れていた。
どうしてこんなことになったのだろう。
涼宮ハルヒはどうして彼を消そうと思ったのだろう。
あれだけ彼のことを好きだ、と言ってのけた癖に。
『あたしのことを好きにならなくても構わないの。』
心の底で彼女は嫌っていたのだ。憎んでいたのだ。
振り向いてくれない彼のことを。
『一緒に居れるだけで幸せなの。あいつの顔を見るだけでも良いの。』
あれだけ、あれだけ愛していると言った癖に。
『あいつが存在する。あたしと同じ世界にいる。』
あれだけ綺麗事を並べた癖に。
『それだけで十分なのよ。』
あれだけ………………!!!
「ちょっとみくるちゃん、アンタ何してるのよ。」
暗い奈落へと沈んでいく僕の意識は、その言葉に一気に浮上した。
「え……。………あ。」
朝比奈さんも何か思案していたのだろうか。その言葉に我に返ったように、お盆の上に乗っている湯呑みをみて口に手を添えた。
「なんで五杯もお茶を用意するのよ。我がSOS団は4人で成り立ってるのよ?」
僕はそのとき何故か無意識に長門さんに視線をやっていた。
本を読んでいるように俯いている彼女の表情は、前髪が影をつくっていて読み取ることが出来ない。それが何故か不安を駆り立てた。
一度ちらり、と彼が座っていた席に視線をやった朝比奈さんは、いつも彼が使っていた湯呑みを持ったまま、何かに耐えるように眉をよせたまま動かない。
泣いてしまうのではないかと思ったが、それでも彼女の瞳は揺らがなかった。
一気に変わる、この部屋を取り巻く空気。彼がいないことの、妙な孤独感。
自分にはわからないそれにイラついたのか、涼宮さんはがたんと音を立て立ち上がり、横からその湯呑みを取り上げた。
「あ…っ!」
「もうグズね!捨てればいいじゃない!」
バシャリ。
そう音がして、淡い緑の液体が排水溝に向かって渦をつくっていく。
ぴくり、と長門さんが動いた。
物悲しい空気が音を立てて崩れていく気がする。その奥にあるのは、何よりも黒く暗い、誰も触れることのできなかった…。
それに彼女は全く気付いていないみたいだった。
そして、まだ不快さを隠そうともしないで、部室全体を見回し、ある一点で視線をとめた。
「何コレ。いつやってたっけ?」
つかつかと、彼女はそれに歩み寄る。
彼がいたという唯一の証拠に。
触るな。
「途中みたいだけど、良いわよね?こんなの。」
触るな、触るな!!
彼女はその台を持ち上げ、斜めにしてそれを全て落とした。黒と白が混ざりあって箱の中へと吸い込まれていく。
ジャラジャラ。
そんな音が聞こえて、遠くへ遠ざかっていった。
彼が消滅した瞬間の映像が蘇ってくる。
彼とやっと重なりあえた。
やっと交わることができた。
彼が微笑んだ、その一瞬だった。
彼の身体が、下からどんどん光の粒となって消えていく、あの瞬間。
彼の表情が氷のように冷たく変わっていくあの瞬間。
その身体を抱きしめて助けようとすることもできなかった自分。
彼が言った最後の言葉。
「長門さんっ!!!」
驚愕の色の叫びに我に返る。
何かが風を切る音。壁に何かが激突する音。客用の湯呑みがゆっくりと落ちて割れた。
「っくぅ……!?」
痛みに思わず顔を歪め、食いしばった歯の奥から鳴る唸り声。
長門さんが、涼宮さんを突き飛ばしたのだ。
「ゆ、きっ……!?」
「貴女は彼を消滅させただけでは飽き足らないのか。」
その声は僕が聞いたどの声よりも、人間らしい声。
それは地に深く木霊しそうなほど強い音。
「な………何、言ってるのよ……?」
最初は驚きの表情を出していた涼宮さんの顔は、どんどん怒りの表情と変わっていく。
「貴女は彼が居たというたった一つしか無い証拠まで私達から奪うのか!!」
「長門さんっ!!!!」
俯いたまま、長門さんが叫ぶ。聞いたこともないような悲痛な声で。
そしてまるで糸が切れた人形のように、崩れ落ちた長門さんに朝比奈さんが駆け寄り、その小さな身体を支えた。
「…なによ…。なんなのよっ!!意味わかんないわ!!…みくるちゃん!!どういうことなのか説明しなさいよ!!」
強く地団駄を踏み、恐ろしいほどに暗く重い目でその二人を睨みつければ、朝比奈さんに向かい叫ぶ。
朝比奈さんはその目に一瞬ひるんだものの、強い眼で、相手を見詰め返した。
「……言えません。」
「………なんて言ったの?」
彼女は眼を見開いた。
それもそうだろう。朝比奈みくるはずっとずっと、聞き分けの良い彼女の「玩具」だったのだ。
それでも彼女はもう一度問いかけようとしたが、その眼を見て、何回問い詰めても無駄だとわかったのだろう、腕を組み視線をふいと逸らした。
「もういいわよ!!行きましょ古泉君っ!!!」
手首を、ものすごいほどの力が掴み、引っ張っていく。
こんな力をこんなに小さな少女が持っているとは到底思えない。
引っ張られながらも朝比奈さんを見詰めれば、長門さんを抱きしめながら、僕のほうを向いて。一瞬寂しそうな苦笑を浮かべたが、それは一瞬で。
次には本当に女神のような、優しい、何もかもを諭すような微笑みを向けてくれた。
連れて来られたのは屋上だった。
彼女がバン!と厚い扉を開ければ、一瞬とても強い風が吹き込んできた。
彼女はいつの間にか僕の腕を離していて、屋上のフェンスに体重を預け校庭を見下ろしている。
近づけば、相手は独り言のようにぽつり、と呟いた。
「…なんだか意味がわからないわ。ずっとずっと、今日は何故か朝から気分が良かったのに。」
気分が、良かった?
彼女は空を見上げた。地平線の奥が赤く染まっている。
「…みくるちゃんもなんだか様子がおかしかったし、有希なんかまったく訳がわからなかったわ。
あんな有希、みたことなかった。……少しだけ、怖かったかもしれない。」
…少しだけ、怖かった?
彼の最後の言葉が映像と共に再び蘇る。
彼は自分が消えていくときに、僕から遠ざかった。
きっと僕まで巻き込まないようにとの無意識の行動だったのだろう。
誰にも弱さを見せない人だった。
弱音を吐かない人だった。
だから最後まで、こみ上げてくる恐怖と戦っていた。
その恐怖は死ぬときの恐怖よりも強かっただろう。
もし死んだとしても、きっと誰かが覚えていてくれる。
アルバムを広げたりして、そこに自分がいて。
こんなこともあったな。なんて、思い出してくれる人がいる。
でも、「消滅」は違うのだ。
写真も亡骸も記憶も存在自身も全て消えてしまう。
誰も自分を覚えてくれない恐怖。
そんな恐怖には、誰だって打ち勝つことなど出来ない。
そして彼の胸の下までが消えていったとき、彼は言った。弱弱しい、震える声で。
『…い……。』
『怖いっ……!!』
自分に伸ばされた手。
救いを求めたその手……。
彼はあの少女の我侭のせいで消滅した。
恐ろしい恐怖に飲み込まれた。
それなのに
怖い?
あの程度の恐ろしさで?
『私が、私が気付いていればキョン君は…っ!!』
『気付けなかった。私の、責任……。』
気分が良かった?
ああ、なんてこの神は身勝手なのだろう。
後悔すべき自分は、都合良く全て忘れて。
後悔などしなくていい者に自分の分まで懺悔させて。
彼女がフェンスから身を乗り出す。
わかっている。本当に後悔し、懺悔しなければならないのは僕だ。
あの時の伸ばされた手を、僕は掴み取ることができなかった。
誰よりも愛していた彼を、僕は救いだすことができなかった。
だから
彼女が大きく身を捩って空を見上げた。
僕だけは決して君の事を忘れないと約束する。
僕だけは一分一秒たりとも君を思い出さないことはないと誓う。
僕だけは、君と過ごしたあの日々を、笑顔を、泣き顔を、微笑みを、全て忘れない。
忘れたくない。
絶対に忘れるものか。
彼女に僕はそっと近づく。
『涼宮ハルヒは彼の存在の証を全て消したいと願っている。』
『いつか私達の彼の記憶も全て消えてしまう。涼宮ハルヒがそう願う限り。』
涼宮ハルヒがそう願う限り、いつか僕の記憶も消滅してしまう。
彼女が生きて、そう。生きて願う限り。いつか彼の記憶が……。
なら彼を忘れないためにできることはこれだけだ。
そして
僕は
彼女の
背中を
押し て
泣いている君が 見えた気がした。